稲葉 貞通。 八幡城の戦い ~稲葉貞通の関ヶ原~

武家家伝_稲葉氏

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戦後、光宗兄弟、通信らは配流され、もうひとりの弟光資が残り稲葉三郎左衛門尉と名乗って稲葉山城主となった。 しばらく謹慎していましたが、 その付近で織田信長が馬の調練を行った際に挨拶に出向くと和解となったそうです。 これは一鉄が武勇だけでなく、文才・謀略にも優れていたことを示すものである。

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稲葉良通(一鉄)頑固一徹!

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天正15年(1587)のに出陣。 【還暦過ぎてもまだまだ最前線】 天正2年(1574年)の長島攻め、 翌3年(1575年)の 、 越前一向一揆攻め、美濃 攻め、 翌4年(1576年)の天王寺の戦い、 天正5年(1577年)の紀州征伐、 加賀一向一揆攻め、播磨国神吉城攻め、 翌6年(1578年)の の戦い (兵糧攻めに切り替えた後には の副将として の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げています。

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稲葉貞通とは (イナバサダミチとは) [単語記事]

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はじめは家康に信用されなかったが、伊勢国長島の攻略戦に加勢してようやく認められた。 【(2)能の御礼】 天正3年(1575年)7月。

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稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

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関が原の合戦には東軍に味方して活躍、戦後の論功行賞で加増を受け、伊勢田丸に転封されて四万七千石を領した。 しかし、1587年の九州攻めでは親子で出陣したが、子の稲葉典通が豊臣秀吉の怒りをかって、稲葉典通は伊勢の朝熊山にて謹慎したため、再び稲葉貞通が家督を継承している。

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稲葉良通(一鉄)頑固一徹!

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いずれにしても、河野氏の一族ではあろうが、美濃に住した確かなことは不詳である。 1598年、上杉景勝が会津へ移封となると、飯山城には3万石で が入り、川中島四郡の代官も命じられたが、1600年には美濃・土岐へ移っている。 稲葉一族 稲葉一族は伊予守通富 通貞 に始まる。

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飯山城 上杉家と武田家が凌ぎを削った最前線の城

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そして九月一日、八幡城攻めが一斉に開始された。 参考論文 [ ]• 以後も、槙島の合戦、朝倉氏の討伐にも従軍し活躍した。

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八幡城の戦い ~稲葉貞通の関ヶ原~

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女子:室• 115• 我が子の武運を願う母心が「南無阿弥陀仏」の6文字に込められているんでしょうね。

稲葉家

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稲葉一鉄は凱旋した織田信長を、領内の呂久の渡しにて饗応している。 ついに、家族を紀通に殺された領民の訴えにより、幕府から謀反の嫌疑を受けるに至った。

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