橡 とち ひろふ太山 みやま もかくやとしづかに覚 おぼ)えられてものに書き付 つ はべる。 奥の細道本文では、春日部ではなく草加に泊まったことになっている。
20こじんもおおく たびにしせるあり。
「おくのほそ道」では、このうちから、、、、、、、、を通過してを出発するまでが書かれている。
スポンサーリンク 奥の細道で代表的な俳句 「奥の細道」の中でもとりわけ有名な句を2つ紹介します。
卯の花に兼房見ゆる白 しら 毛 が かな (曾良) 真っ白く咲き乱れている卯の花を眺めていると、その中から、義経悲劇の最期を飾った武将、兼房が白髪を振り乱して奮戦した姿が彷彿とまぶたに浮かんでくる。 , p. この間 かん 九日 ここのか 、暑湿 しょしつ の労 ろう に神 しん をなやまし、病 やまい おこりてことをしるさず。
4まず、高館 たかだち にのぼれば、北上川 きたかみがわ 南部 なんぶ より流 なが るる大河 たいが なり。
寂 さび しさや 須磨 すま にかちたる 浜(はま)の秋 波の間 ま や 小貝にまじる 萩 はぎ の塵 ちり その日のあらまし、等栽 とうさい に筆(ふで)をとらせて寺に残(のこす)。
がっさん ・湯殿 ゆどの を合わせて三山 さんざん とす。
杉風が別墅:<さんぷうがべっしょ>と読む。 衣川 ころもがわ は、和泉が城 いずみがじょう をめぐりて、高館 たかだち の下 もと にて大河 たいが に落(お)ち入(い)る。 いづれの年にか江戸 えど に来たりてよを尋(たず)ぬ。
15も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。
千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて 幻のちまたに離別の泪をそゝく。
なお、夜 よる の余波 なごり 心すすまず、馬 うま かりて桑折 こおり の駅 えき に出(い)づる。
ちなみに、一般的には「奥の細道」という表記で使われていますが、原文では「おくのほそ道」となっています。 蕉門の早世を知る。 当時の寿命や、旅に出たその5年後に死去した事を考えると、まあまあのおじいちゃんだ。
13そゞろ神:<そぞろがみ>。
このたびの風流 ふうりゅう ここにいたれり。
行 ゆ)くものの悲 かな しみ、残(のこ)るもののうらみ、隻鳧 せきふ のわかれて雲にまよふがごとし。
『英文収録 おくのほそ道』 訳、講談社学術文庫、2007年、 翻訳書 [ ]• 武士たちが戦った昔が夢のように消え去ってしまった)という俳句を詠んでいます。
其詞 そのことば 、 栗(くり)といふ文字(もんじ)は西の木と書きて 西方浄土 さいほうじょうど に便 たより ありと、行基菩薩 ぎょうきぼさつ の一生 いっしょう 杖 つえ にも柱 はしら にもこの木を用 もち)いたまふとかや。
古人もまた、多く旅に死せるあり。
(と詠んだ)表八句を、庵の柱にかけておいた。
江上 こうしょう に帰りて宿 やど を求(もと)むれば、窓 まど をひらき二階 にかい を作(つく)りて、風雲 ふううん の中 うち に旅寝 たびね するこそ、あやしきまで、妙 たえ なる心地 ここち はせらるれ。 石山 いしやま の 石より白し 秋の風 温泉 いでゆ に浴 よく す。 この寺の方丈 ほうじょう に座 ざ して簾 すだれ を捲 まけ ば、風景 ふうけい 一眼 いちがん の中 うち に尽 つき て、南に鳥海 ちょうかい 天をささえ、その陰 かげ うつりて江 え にあり。
1左右山覆 おお ひ、茂 しげ みの中に舟を下 くだ す。
元禄2(1689)年江戸深川を出発、みちのく(奥州・北陸)の名所・旧跡を巡り、9月に大垣に至るまで約150日間、全行程約600里(2400キロメートル)を歩いたといわれています。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
この路 みち 旅人 たびびと 稀 まれ なる所 ところ なれば、関守 せきもり にあやしめられて、漸 ようよう として関 せき をこす。
20石の毒気 どくけ いまだほろびず。
行 ゆ)く春や 鳥啼 なき 魚 うお の 目は泪(なみだ) これを矢立 やたて の初 はじめ として、行(ゆ)く道なを進まず。
舟の上に生涯を浮かべは、船頭 センドウ 櫓と櫂 ロとカイ を使って舟をあやつる人 のこと、馬の口とらへて老いを迎ふるは馬子 マゴ 馬に客を乗せて運賃をもらう人 のこと。